実現しなかった構想シリーズ
冷戦末期、ロッキードから高高度飛行可能なU-2スパイ機に長距離対艦ミサイルを搭載する提案が出た。U-2の航空母艦運用する案と加え、実現していれば米海軍の対艦攻撃の有効範囲がはるかに伸びていただろう。
U-2の供用開始は1955年で、米国の偵察能力を飛躍的に伸ばした。ケリー・ジョンソンの伝説的なスカンクワークスでの開発は一年未満で完了し、U-2は高度70千フィート超での飛行が可能となり、当時のソ連防空戦闘機やミサイルの性能では対応できなかった。
Lockheed Martin
だがU-2を特別な機体にした要素は別にあった。空中給油が始まったばかりの当時にU-2原型は無休油で3千マイル飛行が可能で敵領土上空での極秘作戦を展開できた。搭載した最初のカメラは高度60千フィートで解像度2.5フィートだったが、その後改良が進み、米軍でも最高性能の光学センサー、初の見通し線データリンクを搭載している。
ハイテク機器を搭載するU-2でミサイルを実際に搭載したことはない。だがロッキードはU-2売り込みを目指し、この点に踏み込んだのだった。
ロッキードはUI-2販売増加を狙っていた
海外国の航空施設に依存しなくてもよくなるため、U-2を米海軍空母で運用する構想がCIAにあったことは承知の通りだ。この試みは各種あったがおおむね成功している。
1963年8月、ロッキードのテストパイロット、ボブ・シューマッハーがUSSキティホークからU-2を初めて発艦させ、その後陸上基地に着陸した。翌年2月にはシューマッハーは改装型U-2GをUSSレインジャーから発艦させ、着艦に成功した。同年末にはU-2は実際に米空母から発進しフランスの核実験を偵察した。
CIAはそのまま続けるはずだったが、最新のCIA仕様U-2Rを海洋捜索センサー満載のEP-Xに発展させる米海軍の構想はとん挫した。テストで成功を重ねたが長大な主翼を空母格納庫に収納する問題や極秘機材を空母艦上で保守管理する負担を考えると同機から得られる偵察内容に見合わないと判断したのだった。
これまで報じられていなかったが当時のロッキードは政府に同型機をたくさん購入させようと理由をつくろうとしていた。同社はU-2を1955年から1989年にかけ104機製造したが、情報収集機能以外でしかるべき理由があれば販売を伸ばせると見ていた。
1970年代末の同社は国防産業として過去の名声を失い、財務上のスキャンダルが続き、ビジネス判断を読み間違え、容赦ない報道陣は同社の存続を危ういと踏んでいた。1971年には2億ドルの赤字(2021年のドル価値で13億ドルに相当)を計上し、コスト超過と契約違反でペンタゴンと争っていた。
同年にロッキードへエンジンをもっぱら供給し栄太ロールスロイス が破産を宣告し、操業を続けるべく同社は米政府に250百万ドルの支援を持ち掛けた。70年代末にはロッキードの企業価値は低下し、米防衛産業では第六位にまで落ちてしまい、ジェネラルダイナミクス(F-16)やマクダネル・ダグラス(F-15)より下になってしまう。ロッキードには何としても朗報が必要で、当時開発中の案件もあったが、U-2は性能で折り紙付きで生産ラインも稼働中だった。また同機の操縦は極めて難しかったものの、同機の性能をさらに伸ばす方法を模索していた。
ゲーリー・パウワーズ操縦のU-2がソ連上空で1960年に撃墜されたことで同機の生命が立たれたと考えていた者もあったが、もともと同機はソ連防空体制の限界以上の高度での運用を想定しており、航続距離を伸ばし長時間運用を可能とした偵察機とあれば無視するわけにいかなくなった。たとえ高速かつ高高度飛行性能を有するSR-71が既に存在しており、衛星の性能も向上していたとしても。
ロッキードが米海軍に同機を導入するのに成功していれば、同社にはのどから手が出るほど欲しい収益が実現していただろう。だがそのためにはドラゴンレイディと呼ばれた同機の威力をさらに伸ばす仕掛けが必要だった。
U-2にミサイルを搭載し対艦攻撃に使う構想だった
ロッキードはU-2を偵察装備満載した海洋捜索機としては海軍に販売できなかったが、同社には別の手もあった。
U-2を設計したケリー・ジョンソンはまず空軍にCL-282として同機を提案した。これがのちにU-2となったのだが、戦略空軍(SAC)の伝説の司令官にして第二次大戦時の太平洋で戦略爆撃方式を編み出したカーティス・ルメイに一蹴されてしまった。ルメイはロッキード社訪問団に「車輪も銃も搭載しない」同機には関心がないと冷淡にあしらわれてしまった。
ロッキードはこの時の教訓を胸におさめたものの、U-2に着陸車輪や銃を搭載せず、かわりにミサイル搭載を想定したのだった。
315B型との名称がついたU-2の派生型に二人目の乗員が乗り、レーダー迎撃士官として搭乗するのであり、米海軍のF-14トムキャットなど戦闘機の後部座席に乗る士官と同様だった。
二名運用とすることで、乗員の認知的負荷が効果的に分散される。つまり、パイロットは操縦に集中し、後部座席士官は通信、敵味方の位置把握、航法にもっぱら集中できる。さらに315B型U-2の場合、ウェポンシステムや防御手段の操作に集中できる。
トップガンのグースが高度で30千フィート高いところにいる様子を想像できるだろうか。
U-2 パイロット訓練はビール空軍基地で複座型TU-2Sで行う。 (U.S. Air Force photo by Airman 1st Class Bobby Cummings/Released)
この315B仕様U-2には当時新型で試験中のAGM-53コンドル長距離空対地ミサイルを搭載し敵艦船を最大60マイル先から攻撃する構想だった。コンドルミサイルは電子光学装置(つまりテレビ)がデータリンクで機体に連絡し後席搭乗員が自分で標的に誘導する想定だった。ミサイルはこの形で標的にロックされると搭乗員は別の標的を探し攻撃する構想だった。
同ミサイルは全長14フィート、直径17インチで4フィート5インチの翼幅だった。ロケットダインMk70固体燃料ロケットを推進力とし、排気は小型ノズル二本から出す設計で、後部にはデータリンクが大部分を占めていた。同ミサイルの重量は2,100ポンドになり、ここに630ポンド弾頭も含まれていた。最大速力マッハ2.9で60マイルを一分半で飛翔する性能だった。大型艦の操艦にかかる時間とコンドルのデータリンクに頼る標的捕捉装備を考えれば、敵艦船攻撃手段として優れた選択だった。
さらにコンドルは通常弾薬と核兵器を併用する想定だった。つまり、U-2に核攻撃機になる可能性があったということで、315B仕様とコンドルがともに技術的に成熟するのが条件だった。残念ながらコンドルのメーカー、ロックウェル、ロッキードともに生産に移すことはなかった。
AGM-53コンドルの開発には問題がつきまとい、推進系の信頼性から実用に耐えるデータリンクの実現が予算超過になったことまで多くの難関が生まれた。さらに悪いことに比較的小型の弾頭をつけた同ミサイルの価格がとんでもない金額になり、合理性が失われた。当初は250発調達を1976年までに完了する想定だったが結局開発中止となった。
同ミサイルと同様に315B仕様のU-2も米海軍で実現することはなかった。数年後にロッキードは軍事航空分野で再び頭角を現した。世界初のステルス機F-117で、同機の試験飛行が始まったからだ。
U-2スパイ機はその後も米空軍で重要な役割を続け21世紀の今日に至っている。現在も30機超のU-2が各種任務をこなし、むしろ用途は拡大している。一部機材は米空軍最高性能を誇る戦闘機F-22ラプターとF-35共用打撃戦闘機間の安全な交信の中継機になっている。この各機種がすべてロッキードのスカンクワークスの手によるもので、U-2同様にロッキードは長年にわたり安定した事業展開を続けている。■
Lockheed pitched arming the U-2 with anti-ship missiles - Sandboxx
LOCKHEED PITCHED ARMING THE U-2 WITH ANTI-SHIP MISSILES
Alex Hollings | January 3, 2022
Alex Hollings
Alex Hollings is a writer, dad, and Marine veteran who specializes in foreign policy and defense technology analysis. He holds a master’s degree in Communications from Southern New Hampshire University, as well as a bachelor’s degree in Corporate and Organizational Communications from Framingham State University.
>トップガンのグースが高度で30千フィート高いところにいる様子を想像できるだろうか。
返信削除たぶん、彼は与圧服の窮屈さにぶつくさ言うでしょう(笑)